2025年7月、日本の大麻産業の歴史に新たな一ページが刻まれました。
青森県で初となる第一種大麻草採取栽培者免許が、むつ市に拠点を置く『株式会社やまと大麻』に交付されたのです。
▶️ むつの会社が産業用大麻栽培の免許取得(東奥日報)
その代表、工藤悠平氏の経歴は異色。
早稲田大学大学院を修了後、20代を事業再生コンサルタントとして走り抜けます。
そんな彼がなぜ、大麻栽培の世界へ?
そして、多くの事業者が苦戦する行政の厚い扉を、いかにして「根回しなしの正面突破」でこじ開けることができたのでしょうか?
その答えは、彼の波乱に満ちた半生に裏付けられた情熱と、緻密な戦略にありました。
エリート街道と見えない壁
工藤氏は、2010年代のほとんどを、資格試験予備校や東京のオフィスで、時計の針が深夜を指すまで分厚いテキストや資料と向き合い続ける毎日を送りました。
当時の肩書は、事業再生コンサルタント。
クライアント企業の存亡を賭けた「修羅場」が、彼の日常でした。
彼の情熱の源泉は、高校時代に遡ります。
当時、世間で気鋭の経営者として話題を集めていた堀江貴文氏の姿に、「自分も経営の世界で生きていく」と強く憧れたのがきっかけです。
その想いは彼を突き動かし、早稲田大学の門を叩きます。
経営の修士号(MBA)取得という明確な目標があったからです。
修了後、工藤氏はその言葉通り、経営の世界に身を投じました。
事業計画書の策定、財務分析、ステークホルダーとの交渉。
20代の若さで企業の生死を左右するプレッシャーの中で、彼のビジネススキルは急速に磨かれていきました。
「もっと上へ行きたい」。
その渇望が、彼を次なる挑戦へと駆り立てます。
選んだ道は、最難関資格の一つである公認会計士。
コンサルタントとしての実務経験に、会計や法律という盤石な専門性を加えれば、自身の市場価値は揺るぎないものになる。
そう信じていたのです。
しかし、その高すぎる理想が、工藤氏の心身を蝕んでいきます。
仕事と両立しながらの過酷な受験勉強。
睡眠時間を削り、すべてを目標達成のために捧げました。
しかし、彼の身体は静かに限界を迎えつつありました。
痛みと絶望、そして一筋の光
「キャリアも、健康も、すべてを失いました」
ある日、工藤氏の首に激痛が走ります。
それは、彼の人生の歯車が狂い始める合図でした。
診断は重度の頸椎ヘルニア。
さらに追い打ちをかけるように、糖尿病も併発していました。
医師から告げられたのは、絶対安静と試験の断念。
キャリアプランは白紙になり、社会からの断絶感が彼を襲いました。
ベッドの上で天井を見つめるだけの日々。
かつて企業の未来を救っていた男は、自身の未来さえ見失っていたのです。
痛み止めの薬も気休めにしかなりません。
そんな絶望の底で、彼は藁にもすがる思いでインターネットの海をさまよいます。
そこで偶然見つけたのが、「CBD」という三文字。
「主治医に相談すると、院内で会議が開かれるほどの大騒ぎになりました」と彼は笑います。
当時はまだCBD(カンナビジオール)の認知度も低く、病院側も対応に苦慮したのは想像に難くありません。
しかし、工藤氏の熱意に押され、異例の使用許可が下りました。
すると、医師も驚くほど、彼の主要なバイオマーカーが劇的に改善したと言います。
「これだ、と思った」。
この一筋の光を追い、彼は退院後、すぐさまアメリカ・ラスベガス行きのチケットを手にしました。
当時のラスベガスでは医療大麻が合法化されていました。
現地のクリニックで問診を受け、彼が処方されたのはTHC(テトラヒドロカンナビノール)を20%含む「ブルードリーム」という品種のジョイント。
初めてそれを手にした時の心境を、工藤氏は「正直、怖さと期待が半々でした」と振り返ります。
しかし、意を決して火をつけ、深く吸い込むと…
「驚くほど効きました。吸って数分で、あれほど苦しんだ首の痛みがすっと消えたんです」
それは単なる治療ではありませんでした。
もう一度、普通の生活を送れるかもしれないという希望そのもの。
人生を肯定されたかのような、「救済」の体験だったのです。
新天地カナダで見つけたもの
しかし、日本では大麻は違法です。
帰国すれば、またあの痛みに苛まれる日々に戻ってしまいます。
眠れない夜、工藤氏は自問自答を繰り返しました。
『この国には、もう自分の居場所はないのかもしれない。自分を救ってくれたこの植物と共に生きる道はないのか』
その問いへの答えが、彼を突き動かします。
「日本で使えないなら、使える国へ行けばいい」。
出した答えは、当時、合法化間もないカナダ移住。
その経緯を著書『マリフアナ青春治療(KKベストセラーズ。2020年。)』に記しました。
カナダでの6年間は、彼に新たな視座を与えました。
語学の壁にぶつかりながらも、カレッジに通い、ついにはカナダ政府の非常勤職員として職を得るまでになります。
そして、自宅の庭で許された6株の大麻を育て始めました。
工藤氏がカナダで目撃したのは、医療用から嗜好用へと市場がダイナミックに変化し、大麻が文化として成熟していく過程そのもの。
ディスペンサリーで働く日本人との出会いも、彼の視野を大きく広げた。
「カナダでの体験がなければ、今のビジョンはありませんでした。CBDだけが答えではない。植物全体の力を引き出し、その国の文化と結びつけることの重要性を肌で感じたんです」
このグローバルな視点こそ、彼が後に手にする最強の武器となります。
日本の外から自国を見つめ直したことで、彼は「未来への羅針盤」を手に入れたのです。
常識への挑戦状
2024年、日本へ帰国。
工藤氏の胸には、かつて自分を救ってくれた大麻を、今度は日本の産業として再生させたいという熱い想いが宿っていました。
そして、その想いを実現するため、彼は誰もが驚く行動に出ます。
免許取得までの「正面突破」戦略 5ステップ
なぜ工藤氏は、前例のない免許取得を成し遂げられたのか。
そのプロセスは、情熱だけでなく、極めてロジカルな戦略に基づいています。
STEP1:初回接触「アポなし訪問」
県庁の担当部署にアポなしで直接尋ね、「大麻農家に挑戦したいんです」と切り出しました。これは単なる無鉄砲ではない。本気度を示し、担当者レベルでの形式的な断りではなく議論の場を持って貰うための、計算された一手でした。
STEP2:ロジックの提示「事業計画書」
元コンサルタントのスキルをフル活用し、市場分析、収支計画、リスク管理まで網羅した詳細な事業計画書を提出。これにより、彼の挑戦が単なる思いつきではなく、実現可能性の高いビジネスであることを論理的に証明しました。
STEP3:大義の確立「神事利用への転換」
「CBDなどのカンナビノイドの精製物や嗜好品をつくりたいという目的だけでは、行政は免許を発行してくれないと思います。行政はそれらの開発に対して現状、慎重になっているからです。弊社でもCBDの精製を行う予定はありません」。彼は、ブームに乗ったビジネスではなく、しめ縄や鈴緒といった日本の「神事利用」と伝統文化の継承を事業の主軸に据えました。これが、行政の理解を得る最大の突破口となったと彼は推測しています。
STEP4:関係機関との連携
審査は県庁だけでなく、警察による身元調査、保健所による実地調査など、多岐にわたります。彼は各機関の懸念事項を真摯にヒアリングし、一つひとつクリアにしていきました。関係各省への敬意を示し、法令遵守と行政の意向への理解を深めることで、行政との連携を模索しました。
STEP5:信頼性の担保「海外での実績」
カナダでの合法的な栽培経験は、彼の言葉に何よりの説得力を持たせました。「栽培経験はあるのか?」という行政からの問いに、彼は堂々と「はい」と答えることができました。この実績が、最後の決め手となります。4ヶ月に及ぶ厳しい審査の末、ついに青森県第1号の免許が交付。それは、緻密なロジックと揺るぎない情熱が、行政の固い常識を打ち破った瞬間でした。
理想と現実の狭間で
免許取得は、壮大な物語の序章に過ぎません。
工藤氏の前には、今もいくつもの巨大なハードルがそびえ立ちます。
「ようやくスタート地点に立てましたが、課題は山積みです」
彼は理想を語るだけでなく、その実現に向けた泥臭い現実に日々向き合っています。
日本を含む世界のディスペンサリーや農家といった仲間たちと議論を重ね、金融機関との融資交渉に奔走中。
このリアルな挑戦こそが、彼の物語に血肉を与えています。
「全草利用」の事業モデルと課題
株式会社やまと大麻のビジネスモデルは「全草利用」という哲学に貫かれています。
事業の全体像:
資源: 大麻草
活用:
・花(バッズ): サプリメント原料として他社へ供給を検討(将来的な可能性)
・茎(麻糸): しめ縄、鈴緒など神具、漁具(現在の主力)
・葉: 麻茶として製品化を検討
・おがら(麻幹): お盆の伝統資材や花火の麻墨として供給
直面する現実的課題:
・高額な初期投資: THCの検査機器。
・原料の供給不足: 国産の精麻は常に需要過多で、1年後の予約も埋まっている。
・人材不足: 特に精麻をつくるための高度な技術を持つ人材の育成が急務。
青森から、世界へ
「日本の大麻は、世界で売れます!」
数々のハードルを前にしても、工藤氏の瞳は輝きを失いません。
彼の視線は、青森の畑の先、はるか世界の市場を見据えています。
日本の大麻の歴史と結びついた『やまと大麻』のユニークなストーリーは、海外のウェルネス市場で強力なブランドになります。
そのための上場や医療大麻の製造に必要となる第二種免許の取得という、明確なロードマップもすでに構想済み。
しかし、その壮大なビジョンの根底にあるのは、極めて個人的で、純粋な想いです。
「かつて私を救ってくれたこの植物の真価を、今度は私が世界に証明する番です」
工藤悠平氏の挑戦は、まだ始まったばかり。
しかし、彼が畑に蒔いた一粒の種は、やて日本の常識を、そして私たちの未来を変える大きなうねりになるかもしれません。